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書きたいことを

就活

就活を通して理解したのは、自分が自分の思っている以上に無能で幼稚で中身のない人間だということであり、その上、嘘もつけないのだから、ろくに社会で生きていけない人間なのかもしれないということだ。私立の学校行って、しっかりコストをかけて育てて貰ったのにも関わらずこんな人間にしかなれなくて本当に申し訳ない。コミュ障が自覚的には自身のコミュニケーション能力は改善されたと思っていても、それはただの声が出ているコミュ障であり、実質的にはなにも変わっていないのだったことにも気づいた。就活というか、人生においてどのような選択をしてくればもう少し上手に生きて来れたのか。今までの人生の中で十分な成功体験を積めてこれなかったあたりに、こんな人間になることはなんとなく示唆されていたのだろう。周りからはなんとなく出来そうと評価され、自分の中でもちゃんと出来ると思えるレベルまで高めてから、物事には取り組むようにしてきたのだけど、受験とか就活とかこうした人生のビッグイベントではたいした成果を得られた試しがなくって、たぶん実際と評価のギャップが激しいのかもしれない。だからこそ必要以上に本当になんにも、なんでもない自分自身に期待してしまっているのかもしれない。何でも出来そうでなんにもできない人間に価値はない。器用貧乏でもなんでもない、ただの無能である。一般論的に期待しなくなったらおしまいみたいな話があるけども、それは期待した結果として成功体験を得ることができている人々が言うことであって、期待しても何も得れていなければ期待などする意味がない。期待をしないことと取り組まないこと、努力しないことは同義じゃない。

親には申し訳ないけど、自分の無能さに向きあって、身分相応の生き方をしていくのが良いのだろう。これから先、何を楽しみに生きていくのかもわからないけども、とりあえず生きて、親の面倒は見れるようにしておくことはかけられたコストに対してすべきことなのだろう。

人生ののびしろ

まだまだそんなに長く生きてはいない気がするけど、もう人生にのびしろを感じない。これ以上面白くなることなんてない気がする。

昔から好きだったゲームやアニメはいまいち楽しめなくなってきたし、かといって映画や本はそこまでハマりきれない。YouTubeだったりスポーツ観戦だったりは少し楽しいけど、なんかずっと何かを消費しているだけでこれ以上面白くなることが見込めない。その上スポーツもSNSやインターネット上のサイトを眺めればなにかしらの議論が繰り広げられていて、嫌でも目についてしまう。ストレスなくコンテンツをただ楽しむのも簡単じゃない。

友人関係も大して広い方じゃないし、信用している友人からこの前人間性を否定されてしまった。自分と言う人間が何も持っていないことは自認していたけども、にしてもまだましな方だと思っていた人間性まで否定されてしまっては今後に希望など持てない。

自分と言うものを何を基準にして信じていいのかが全くわからなくなってしまった。いろんな正しさが必要以上に見えてしまう世の中で、まだまだ自分の平衡感覚は保てていると信じていてもどうやら実際は崩壊していたりするものらしい。

ただ人から劣っていた人がそれなりに努力したところで根底の腐り具合は変わらない上に周囲から見たら何も面白くない人間に変化してしまうのだから生きるのは難しい。いったいどうすればそこそこの暮らしが出来るのだろうか。いったい何が楽しくて人々は長生きがしたくって、少なくともいま生きていけるのだろうか。

もう最近は何もわからない。なんかしらの努力をして人の迷惑にならない程度に上手く生きて、親に対して養育費に見合ったくらいの働きをしていかなきゃとは思うけども、そんな人生の過ごし方の何がいいのだ。だれがそんな生き方をしたいと望むか。

何でもいいから自分に自信を持って、軸を持って、楽しく生きられている人を心底羨ましいとは思う。他人に正しさを押し付けられるくらいの自信は必要だ。

ツッコミって他人に正しさを押し付けている気がして、他者をひどく見下した行為のような気がして急にやることが憚られてしまうようになった。おかげで話がつまらない上にろくな反応もできない人間になってしまっている。

一人で大してはまってる趣味もないのに楽しく生きていく方法を募集しています。変にキバを抜かれて中途半端な存在になってしまうと、もう何にもなれない。なにも心の底から楽しめやしない。

大元が人見知りで他者が怖いというのが自分の中に前提としてあって、それを上手くごまかしながら社会の中で生きようとしていたのだけれど、最近はそれも自己中心的だと非難されてしまった。接し方がわからないから怖がるのもよくないらしい。そんなのは強者の理論にすぎないと思うが、弱者はろくな反論もできない。こうやってチラシの裏に書き散らしてなんとか精神を繋ぎ止めなきゃならない。

なにか努力しなきゃなとは思うのに、こうやって考え事を始めてしまうと何も手につかなくてホントに無駄な時間を過ごしてしまう。そんないまさら大きく変化なんてできないだろうにね。自分に対する諦めも完遂できないあたり本当に中途半端な人間だ。

自分が弱い人間だと知っているから、あまり自分にたいして否定的な感情を抱かないようにしようと、抱いたとしても心で思うときにはプラスではないくらいの感情で抑えていたのに、他人から直接言われてしまっては認めるほかない。だからってそんな変われるわけないのにね。そんなんで変われていたらこんなに文章を書き留めなきゃいけないほど思考が繰り返されることもないだろう。

思い付きだけで書き続けているからきっとなんのまとまりもなくて読む価値もない文章だ。むしろ読まれちゃ困る。ただどこかに示したいからここに書いてるだけだから。誰かに見せたいわけではない。ただ自分の手の届かないところまで言って欲しい。

とりあえず人生を1000倍くらいの早さで終えたいね。不慮の事故に遭わせてくれ。

客観視

ってすればするほど自分の人生の空虚さを感じて死にたくなりますよね。就活をしようと自分の長所や経歴を探してみるけどなにも持ってないみたいな。何もないところに虚像を立てて、そういう人は就活を乗り越えるんだろうけど、終わったあとには虚像の空き地しか残っていないんだから、その空白にはどうやって対応するんでしょうね って話を長々と書くほどテンションが持たなかったので、後ろ向き陰きゃヒューマンの方々の意見をお待ちしております。

出会い系下手くそおじさん

恋愛をせずに死ぬのが嫌すぎて出会い系に手を出した。恋愛をせずに っていうのが性欲にまみれたものなのか、ただの他人への憧れから来てるのか、回りに流されてるだけなのか、いまいちそれはわからないけど、世の中の大半の人が行い、楽しんでるものをせずに死ぬなんて本当に人生の三割は無駄にしてるような気がした。

出会い系サイトに登録すると、とてつもない量の異性の顔が表示される。それをひたすら眺めながらこちらが興味をあるかどうか示し続ける作業が始まる。まともな恋愛感情もしらずにこんなルーチンワークのようなものを行ったところで何か得るものはあるのかと思いながら適当にボタンをタップしていく。

今までの人生で自分の顔面がそこまで終わってるとは認識して生きてこなかったし、回りからは一人二人は当然いるだろうという扱いを受けて暮らしてきたために出会い系に登録さえすればなんとなくうまくはいくだろうと一種の奢りのようなものをもって参加していった。

案外簡単にマッチングに成功した。そして会話を始める。会話の中で相手は基本的に受け身であり、ロクに会話を広げてはくれない。最初のうちは出会うためのサイトで相手を積極的に知ろうとしない態度が理解できなかった。ただ気づくことになる。自分というものの相手から見た相対的価値の低さに。当然である。相手から見てよっぽど顔が良かったり、趣味があったり、なんかしらの魅力をより感じるような人間に接近していくのはなんの変哲もない行為だ。自分と言う人間は大して優れた顔面を持っているわけでもなく、"オタク"というものに嫌気が差し中途半端にアニメだったりゲームだったり、日陰者のマジョリティから離れていってしまったために多くの他者と共通する趣味さえ持ってなかった。自分の趣味でコミュティを探したところで、年齢層が自分よりもずっと上で愕然とさせられた。現実で趣味の話をすることがほぼないのも納得であった。そんな中で大して面白い話ができない人間が出来ることなど本当につまらない話ばかりで、相手からしても苦痛の時間であっただろう。自然とメッセージは続かなくなっていくものばかりだ。その上マッチングしても会話が始まらないという人が多く存在する。ここでも自分の相対的な価値の低さを強く実感する。最低限マッチングはさせてもらえるあたり、無くはない人間なのだろう。だから恋人くらい居たことある前提で他者からは見られるのだ。

最初のうちこそメッセージが続かなかったり始まらなかったりすることに傷つきはするが一月もやっていると、自分の評価がその程度であることを理解し、余計に作業的な意味合いが強くなる。

こうしてやっていると、ここでいいねを押した相手に自分は本当に興味を持っているのだろうかと考えさせられる。ただ若干好みの顔を選び、人としてのタイプが離れていなさそうならばいいねを押す。それで相手の何を好きだと思うのだろうか。恋愛を知るために試みがより恋愛がわからなくなってしまった。恋愛関係を構築するほどの感情にはまだまだ出会えそうにないし、よっぽど出会えなさそうな状況になってしまった。早いとこ恋愛を諦めて生きていく方が人生が楽しく見えるのかもしれない。三割を損してるとしても、その三割に気づかないふりをし続けていれば十割の人生を過ごせていると錯覚することくらいはできるのだから。

 

話題

最近、人と話していて本当に話す話題が無い。相対してる相手と似たような年月を過ごしてきたはずなのに自分はビックリするくらい空っぽで何も出てこない。ひょっとしたら面白いことは有るのかもしれないけど、生憎それに目を向ける能力は置いてきたみたいで何も見つけられやしない。今みたいに話す話題がないって話題で人と盛り上がるくらい。ある意味話題はあるね。受け手の解釈によっちゃ失礼にもほどがあるけど。

雑にオタクとして人生を消化していると、人と話すときに確実に共通の話題があった。オタクは余計にその事に関してだけは情報はたっぷりあるから、話すことにはそれで困らない。ただ話すのは苦手な人が下手に相づちを打ったりするのが上手かったり、いじられ体質だったりすると話すとき、自主性を一切必要とせずに会話を行えてしまうから完全に自ら話す能力を養う機会は失われていく。

中途半端なオタクの良くないところは忙しくなってくるとオタクじゃなくなっていくこと。情報収集のしないオタクなどもはや、もやしか肉団子か。一緒に炒めたら案外美味しいかも。格好だけまともに寄せて、中身が空っぽになってしまうといよいよオタクの枠からは外れていく。いよいよ陽キャにはなれなくって、雰囲気で陰キャの中に固まっていく。そんな集団の中でキャラが立っている人なんて数えるほどしかいないから会話をすると地獄だ。全員話すことがない。飲み会で訪れる沈黙など地獄でしかない。仕方がないから話す面白い気が全くしない話で愛想笑いを勝ち取り、またそこから沈黙が訪れる。その繰り返し。受け身の姿勢をとるやつしかいない。確かに、人と一緒にいるときに会話を必要と思わない人はいる。彼らもそうなのかもしれない。でもそれを適用するのは今ではないはずだ。未成年だからお酒も飲まず、あんまり美味しくないご飯とこの後払わされる料金を比較してなんか勿体なさを感じる。居酒屋はそんなことのための場所ではない。少しでも話して元をとらねば。そうしてまたどうでもいい話をしてしまう。世の中の全く面白くない話を延々とできる人はこうやって形成されていくのだろうか。回りがいくらでも話を聞いてくれる人ばっかで、決して面白くないとは言わない。おかげで自分に対して勘違いをしていく。自分自身もそっちに足を突っ込みかけている気がする。せっかく面白い話をしている人の話に割り込んでいくタイプの人にはなりたくはない。

今はとりあえず面白いと思う人の話し方を真似するしかない。

  ツイッターなんて何を書き込んでもいいと思ってた。友達が勝手にフォローしてきても何も面白いことはないよ?なんていいながら黙認してた。自分はとりあえず人当たりは良くしよう、相手に嫌われないようにしよう、なんて言っていろんな人と当たり障りなく接していた。友達とは言えど愚痴を延々と聞かされるのもつまらないだろうし、せっかくの会話をそんなことに割きたくない一心で嫌なことがあるとツイッターなんかに呟いて自分なりに整理をつけていた。ある日を境にツイッターで愚痴ってることを友達?によく指摘されるようになった。それで自分にそれをやめろと言ってくる。勝手にフォローしておいてその言いぐさに正直イラついた。まぁ話し半分に聞いておこうと一回目は気にしていなかったのだが、それ以降も一月に一回程度のペースで会うたびに突っ込まれた。そうすると、ツイッターで愚痴を呟こうとするときにその事が思い出されて愚痴ることが躊躇われる。ストレスを軽減するための行為によってむしろストレスが増大していくのだ。いままで捌け口として利用してきたものが、他者によって急に禁じられると案外、代替手段を見つけられないもので、他のアカウントを作り直してそれでこれまで通りやろうかなとも思ったけれども、他の人も同様に思っていたかもしれないなどと思ってしまって憚られてしまう。

  他者からしたら軽いイジリだったり、自分にとっての比重が全く理解できないものであったりするのだろうが、残念ながら自分はそれほど強い人間ではないので色々溜め込んでしまうし、気にしやすい。本当に見たいやつが勝手に見ろという意味で今はここに逃げ込んで入るものの、ここもいつか誰かに一言言われれば使えなくなるのだろう。次はいったいどこへ逃げようか。

娜っ惰墮

自分としてはできる範囲内で最大限の努力を行った。

でも、他人からはその成果は認められず努力不足だと責められる。

まぁ仕方のないことだ。他人からは自分の努力は見えないし、逆に自分からも相手の努力は見えない。多大なる時間を払って相手はその場に立っているのかもしれないし、もしかしたらただただ自分の能力が極端に不足しているために努力が形をなさないのか。

ただ、その努力を真っ正面から否定されると、自分のなかでもその不足は認識してたらいっそう深く傷つくこととなる。

向いていないと一蹴して、他のことに目線を向ければ、その事実からは逃れられるし案外上手く行くかもしれない。ただその事にかけてきた時間や労力は帰ってこない。他人からしたらたいした成果ではないのだろうから簡単に切り捨ててもいいのかもしれないが、それほど上手く生きれていたらこんな心配は必要ないだろう。

いま求められているのは、それへの反発心だ。否定されたとしても、何もないわけではない。所詮素人同士の比べ物ならば努力次第では追い付きようなどいくらでもあるのかもしれない。

日本の教育者はダメだとか否定されるかもしれないが、反発心を養うには大いに役立っているとツイッターなどをみているとよく思う。いかにしてその得てきた反発心を自らのために、自己満足のために活かして行けるのか。それこそがとりあえずいま必要な考え方かもしれない。