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書きたいことを

就活

就活を通して理解したのは、自分が自分の思っている以上に無能で幼稚で中身のない人間だということであり、その上、嘘もつけないのだから、ろくに社会で生きていけない人間なのかもしれないということだ。私立の学校行って、しっかりコストをかけて育てて貰ったのにも関わらずこんな人間にしかなれなくて本当に申し訳ない。コミュ障が自覚的には自身のコミュニケーション能力は改善されたと思っていても、それはただの声が出ているコミュ障であり、実質的にはなにも変わっていないのだったことにも気づいた。就活というか、人生においてどのような選択をしてくればもう少し上手に生きて来れたのか。今までの人生の中で十分な成功体験を積めてこれなかったあたりに、こんな人間になることはなんとなく示唆されていたのだろう。周りからはなんとなく出来そうと評価され、自分の中でもちゃんと出来ると思えるレベルまで高めてから、物事には取り組むようにしてきたのだけど、受験とか就活とかこうした人生のビッグイベントではたいした成果を得られた試しがなくって、たぶん実際と評価のギャップが激しいのかもしれない。だからこそ必要以上に本当になんにも、なんでもない自分自身に期待してしまっているのかもしれない。何でも出来そうでなんにもできない人間に価値はない。器用貧乏でもなんでもない、ただの無能である。一般論的に期待しなくなったらおしまいみたいな話があるけども、それは期待した結果として成功体験を得ることができている人々が言うことであって、期待しても何も得れていなければ期待などする意味がない。期待をしないことと取り組まないこと、努力しないことは同義じゃない。

親には申し訳ないけど、自分の無能さに向きあって、身分相応の生き方をしていくのが良いのだろう。これから先、何を楽しみに生きていくのかもわからないけども、とりあえず生きて、親の面倒は見れるようにしておくことはかけられたコストに対してすべきことなのだろう。